<IT画文集~私の醍醐味~>    田代牧彦 3/4 

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 ・平城相楽ニュータウンとは?


  先ずは平城・相楽ニュータウンは、近鉄京都線で京都からどんどん南方へ行って、大和西大寺の少し手前の京都府と奈良県に跨った府県境にある。下の写真の赤い部分がそれである。 拡大図も示す。府県境をほんの少し奈良県側に入ったところに高の原駅があり、駅前には案内看板がある。
  更に高の原駅上空から見た平城・相楽ニュータウンの西半分の写真をご覧下さい。大阪府と府県境を接する生駒山連山まで住宅が広がっているのがお判り頂けるだろう。奈良市西北部のこの地区は、元来山林や田畠だった地帯である。戦後近鉄奈良線学園前駅を中心にした地区から住宅開発が始まり、あやめ池、富雄、登美ヶ丘と発展し、次いで大和西大寺北方の丘陵地の北側で平城・相楽ニュータウンが1970年代より開発された。
  ニュータウンの名称が平城・相楽ニュータウンと言うのは、前述したように奈良県と京都府に跨っていて、奈良県側は平城京に近いので平城を、京都府側は元々相楽郡であったことから相楽という名称をを採用したことによる。
  この地帯は東西に延びる鬱蒼とした山林に覆われた丘陵地帯で平城山(ならやま)と言われ、平城京より丘陵を超えて京都側に行くことが出来る歌姫街道があり、瓦竃が散在していた。尚、この丘陵は、北見志保子作詞、平井康三郎作曲の哀調に富んだ名歌曲「平城山(ならやま)」で名高い。
  この丘陵の南側は、平城京に接しているので風致地区として残し、北側半分を日本住宅公団(現在:都市整備公団)が1970年より1994年にかけて開発した。その規模は、東西4.0㎞、南北2.5㎞、計画人口奈良側4.3万人、京都側3万人、合計7.3万人の計画都市である。従って自然発生的な要素は全くなく、パチンコ屋とか居酒屋、ごみごみした街並みなどは一切禁止され、整然とした街区が連なっている。後に関西文化学術研究都市に組み込まれたので、住宅地の他に研究施設ゾーンがあり、積水ハウスやダイワハウス工業の規模の大きい研究所などがある。住人の80%が大阪方面への通勤者、残り20%が奈良県内、京都への通勤者である。広い空、広い道路とあちこちに配置された公園が印象的だ。
  ニュータウンの中心駅は近鉄京都線高の原駅で、京都線では京都駅、大和西大寺駅、丹波橋駅に次いで乗降客が多く(一日約36,000人)、ラッシュ時の混雑は相当なものだ。この為、急行以外に朝晩の通勤時間帯には特急が停車する駅となっている。
  何故高の原という駅名か?その由来を示す歌碑「秋さらば今も見るごと妻恋に 鹿鳴かむ山そ高野原の上 万葉集巻一・八十八 長皇子」が駅出口にある。 下に写真を掲げる。

赤い部分が平城・相楽ニュータウン

拡大図

駅前の案内看板

万葉集・歌碑

平城・相楽ニュータウンの西半分