本年6月バルト3国を旅行したが、その時にガイドの説明で生き方に感銘を受けた杉原千畝を今年の画文集で取り上げることにした。千畝は1900年1月1日に岐阜県で生まれる。小学校の間は父親が公務員(税務署)だったこともあり、転校が多く、新しい土地に溶け込んで友達をつくり、楽しく過ごすにはその地方の言葉を早く覚えて使いこなすことだと子供ながらに気づいた。
中学校で英語に興味を持った。英語を使っていろんな国の人と交流できるようになりたいと思った。中学を卒業した千畝は家族のいる京城(現在のソウル)に行くが、もともと成績が良かったので父親は医者にしようと勝手に医学校の入学願書を出してしまっていた。千畝は英語をやりたいために医学校の試験を白紙で出してもちろん不合格となった。こうして父親を怒らせてしまうが早稲田大学で英語課の学生募集をしていることを知って入学する。怒らせてしまった親からの仕送りは無く、英語塾のアルバイト、新聞配達などをしながら学校に行っていたが、外務省の留学生募集を目にして試験を受け合格する。ただこの募集は英語やフランス語などではなく、ロシア語やスペイン語やタイ語など当時としてはマイナーな言語の募集であった。当時特にロシアは革命でロマノフ王朝が倒され政情が不安定で希望が少なかったので、外務省は千畝にロシア語を専攻するように勧め、ハルピン学院に留学させる。小学校の転校の体験から土地の人と仲良くしたいなら、そこの言葉を覚えて使いこなすことが早道だとロシア人の家に下宿してわずか4か月後には日常会話に困らない程にロシア語が上達したという。
1925年にハルピンの日本総領事館のロシア課に本採用される。1931年に満州事変が起こり、日本傀儡の満州国が建国されると同時に満州国外交部に変わる。1933年ロシアが満州に作った北満鉄道を買取る交渉が始まるがここで千畝は得意のロシア語を生かして現地の人を使って満州鉄道を徹底的に調査し、朽ちた枕木や手抜き管理の車両の状態など詳しい証拠資料を提示して625百万円の言い値を140百万円に値切ったといわれる。この調査能力に目を付けられ関東軍から諜報活動に勧誘されたこともあり、嫌気の差した千畝は1935年日本に帰国、外務省に復帰する。
帰国して同年、外務省に出入りしていた友人の保険外交員の娘、幸子(ユキコ)と出会い結婚、翌年長男誕生。その年にソ連の日本大使館に赴任辞令が出るが、満州鉄道の交渉での能力を畏れたソ連はビザの発行を拒否。やむなく1937年フィンランドの日本公使館へ赴任することになる。ソ連のビザが出ないのでシベリア鉄道を使えない。やむなく太平洋・アメリカ・大西洋横断してフィンランド日本公使館通訳官に着任。
その後公使代理を経て、1939年7月、日本領事館を開設したリトアニアのカウナスに領事代理として赴任する。1939年9月にはドイツ軍がポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発する。ドイツはソ連とポーランド分割の密約を結んでおり、同時にソ連もポーランドに侵攻する。当時のポーランド住民の3割がユダヤ人だったと言われている。ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、スイスと同じように中立国と思われていたリトアニアに殺到する。リトアニアはポーランドに接しており、翌1940年6月ソ連はリトアニアに進駐してくる。7月15日親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。リトアニアがソ連邦下になれば、ユダヤ人たちは国外に出る自由は奪われてしまう。ヒトラーの戦略から、いずれは独ソの戦いが始まることも視野にいれると、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感した。