もはや一刻を争う状態だった。すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので西への道は閉ざされており、ユダヤ人の逃亡手段は東のシベリアを越えて日本の通過ビザを使って、日本から第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え、領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのは、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクである。彼はカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、税関もないので入国できるということに目をつけ、キュラソー行きのビザの発給を決断した。キュラソー島は岩だらけの小島で、ユダヤ人の窮状を救うために考えられた方便であったが、もはやこれしか方法がなかった。オランダ領事が発給した「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日午前6時であった。
午前6時に日本の通過ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前を埋めつくす。千畝は事態を把握するため下記のユダヤ人代表5人を選び領事館に入れ、事情を聞く。
・B. Gehashra Nishri(のちの在日イスラエル大使館参事官)
・A.Dr.Zorach Warhaftig (のちの宗教大臣)
・C. Mirister Shimon Yaeeon(Nishri氏後任、在日イスラエル大使館参事官)
・D. Gileene Klementyroveski
・E. Adv.Zvi Klementyroveski Deputy mayor tel-aviv-yabo
ユダヤ人代表は「我々はナチスドイツから迫害を受け、ポーランドから逃げてきたユダヤ人で、日本領事館に行けばビザがもらえると聞いてきた。オランダ領キュラソーのビザを持っている。日本の通過ビザを交付していただきたい」これに対し千畝は「みなさんの要求は日本通過の許可ということですが、それを証明するドキュメントでもよいから提出してください。みなさんの窮状はよくわかりました。なんとか援助してあげたいのですが、これだけの枚数のビザとなると外務省の許可が必要ですから、3、4日待ってください」と言って午後に外務大臣に判断を仰ぐ電報を打つ。翌日ソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得るも日本外務省よりは「ビザ発給拒否」の回答。千畝は苦悩のすえ再度外務省に電報を打つが同じく「ビザ発給拒否」との返事。
千畝はユダヤ難民を前に一晩中ビザを発給するかどうか悩んだ末に7月25日外務省の指示に反するが人道的立場から受入国を「キュラソー」とする日本通過ビザ発給を決断。大量発行のためのビザのゴム印を発注し「キュラソー」ゴム印届くや7月29日千畝はユダヤ人難民に「ビザを発行する」と宣言し、その日から毎日大量のビザを発給し始める。
8月2日外務省より領事館退去命令、8月3日リトアニアはソ連に併合され14番目の共和国となる。この日以降、日本国及びソ連政府からも再々の領事館退去命令があったが、これを無視してビザを書き続ける。
8月26日、外務省の外交史料館に保管されている「杉原リスト」に記録されている最後の3人にビザを発給後に日本領事館閉鎖。しかしこれ以降も宿泊先のメトロポリスホテルでビザの代わりの渡航証明書を発給し続ける。9月5日千畝一家はベルリンへ向かうためカウナス駅へ行くが、ホームでも日本の入国許可証を求めるユダヤ人に渡航証明書を発給し続け、更に列車が動き出しても車窓から一枚でも多くと発給した。現在、外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。
その家族や公式記録から漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人とも言われている。このビザは「命のビザ」と呼ばれている。それでも千畝はビザを求めてカウナス駅に取り残された大勢のユダヤ人のことを思うと、もう一日でも早く決断しておればもっと多くのビザが発給できたのにと悔やんだのであった。