その後千畝はプラハ、ケーニッヒベルグを経てブカレストでの勤務中、ソ連にブカレストのゲンチャ捕虜収容所に連行される。カウナス駐在時、ソ連の退去命令に背いてユダヤ人にビザを書き続けたことを咎められたのだった。約1年間の収容所生活の後、日本に帰国、外務省に復帰する。しかし国の指示に反してビザを発給したことで退職をせまられたとか、ビザ発給に際しユダヤ人から金銭を受け取っていたのではないかという噂に嫌気がさしたとか、いろいろと説はあるが結局、外務省を退職する。退職後は千畝はリトアニアの出来事など忘れて、堪能な英語やロシア語を生かして民間会社に勤めていた。
1968年突然千畝はイスラエル大使館から呼び出しを受け、出かけるとそこにはカウナスの領事館で話し合った5人の代表者の一人「ニシェリ」が大使館参事官となって出迎え、再会を喜びあった。ニシェリは千畝が発行したビザを持ってシベリア鉄道に乗り、ウラジオストックから敦賀を経て脱出に成功していたのである。ニシェリ達は一時も千畝の恩を忘れずに千畝を探し続けていたのだった。カウナス駐在時は「チウネ」という呼び名は発音しずらいので「センポ」と呼ばせており、「センポ・スギハラ」で外務省に消息を問い合わせても該当者なしと言われ探し出すのに時間がかかったのだと説明をうける。再会してニシェリに感謝の意を伝えられると千畝はやはり自分のしたことは間違っていなかったと確信を持った。ニシェリは同じ5人のうちの一人でイスラエルの宗教大臣になっているバルハフティックと連絡をとり、翌1969年千畝はイスラエルに招待され、「記憶せよ、忘れるなかれ」と刻まれた追悼記念館に案内され勲章をうける。お互いの再会を喜び話しているなかで、大臣は当時千畝が国の反対を押し切ってビザを発給したことを知り感銘を受ける。1986年千畝はイスラエルの最高勲位である「ヤド・パジェム賞」を贈られ「諸国のなかの正義の人」に列せられることになった。千畝はその翌年1986年7月31日86歳の生涯を終える。
その後千畝の評価は高まり、2000年には外務省の外交史料館で杉原千畝の顕彰プレートの除幕式が行われ、河野洋平外務大臣が杉原家に対して正式に謝罪し、千畝の行いを人道的行為と讃えた。「命のビザ」発給75周年の2015年にはカウナス駅やホテルメトロポリスに記念プレートが、エストニアの首都ヴェリニウスに千畝の碑が設置された。日本でも東宝映画「杉原千畝・スギハラチウネ」が上映されたりして杉原千畝が行った行為が脚光を浴びている。
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし私を頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」杉原千畝の手記より
参考資料「カウナス杉原記念館小冊子」