纏向遺跡が卑弥呼の王宮ではないか、いわれる根拠
1.発掘された建物跡は、東西100m、南北150mの長方形の土地に3棟の建物が整然と東西の一直線に並んでいた。最大の建物はタテ19m、ヨコ12m、約240㎡の広さ。弥生時代から古墳時代に移るこの時期、建物が一方向に並ぶ前例はない。卑弥呼が遣いした中国の王宮にみならった建物ではないか、といわれる。
2.大型建物の柱跡の近くで、桃核(桃の種)3000個がまとめて出土した。これを炭素(C14)年代測定法で精密測定した結果、西暦135~230年の物と判明した。卑弥呼の生存年(~240ごろ)とほぼ一致するので魏志倭人伝に記載のある「鬼道を事とした」卑弥呼が祭祀に用いたのではないか、と推測できる。
3.この地域から出土した土器類は、約30%が九州・瀬戸内・山陰・東海・北陸・南関東など全国から集まってきた物であることが判明した。ここにはおおむね10人のうち3人の割合で大和以外からの移住者が居住していたことになり、それらの人々を束ねることのできる支配者がいたことを示す。
4.遺跡の南方に位置する箸墓古墳は、ハニワ片などの出土品から3世紀中ごろの築造とされる。日本最古の前方後円墳といわれ、その全長は280mにおよぶ。魏志倭人伝によれば、卑弥呼の墓は「径100余歩(今の長さで150m)」とあり、この古墳の後円部直径155mとほぼ合致する。
5.魏志倭人伝に「卑弥呼は倭国に産出する丹を魏に贈った」とある。3世紀ごろの鉛丹鉱石生産地は近畿地方(紀伊山地)に限られるので畿内説を補強する事実とされる。丹は辰砂(しんしゃ)とも呼ばれ、当時中国で珍重された品であった。
6.遺跡から纏向大溝と呼ばれる2条の水路が発見された。幅が5m、総延長200mあり、井堰や取水桝が取り付けられていた。纏向山に水源を発し、纏向川、初瀬川から大和川を経て大阪湾にいたる水運のラインとして利用されたようだ。