箸墓(はしはか)古墳は、纏向遺跡から南へ向かって徒歩で500mほどいったところにあり、三輪山にほど近い大型の前方後円墳である。墳丘長280m、後円部直径155m、前方部の長さ125m、前方部前面幅147mの大きさである。(写真①参照)宮内庁所管の陵墓のため立ち入りは禁止されているが、レーザーを用いた航空計測による赤色立体図(写真②参照)で確かめられた古墳には、茸石が敷かれ、後円部が5段、前方部前面と側面が4段の段築であることがわかった。また、不思議なことに纏向遺跡の宮殿跡の中心を通る東西線と直角に交わる線を南に延長すると、この古墳の後円部の中央を通過する。土器や木製品など出土した遺物や周辺の位置関係から、ほぼ3世紀中ごろの築造といわれる。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は第7代孝霊天皇の皇女で、三輪神社の祭神大物主命の妻とされ、宮内庁所管の陵墓に指定されている。日本書紀巻五、崇神天皇の項に「大市(おおいち)に葬り箸墓と呼ぶ。墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。葺石は、はるか大坂山(二上山)から人が手渡しで運んだ」などと記されている。
古墳が築かれて400年余りのちに編さんされ、藤原不比等や舎人(とねり)親王らによって720年に完成したとされる日本書紀にこの逸話が記載されているということは、箸墓の存在が奈良時代の昔からの人々にとって話題性豊かなものであったことを示している。
最近になり纏向遺跡(宮殿跡)と結び付けて、この箸墓古墳こそが卑弥呼の眠る墓ではないか、という研究者も多い。