< IT画文集 > 左近 茂樹 1/5

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「薩長同盟」 締結地 ・ 小松帯刀寓居跡 を訪れる

 「薩長同盟」とは坂本龍馬が薩摩藩と長州藩の仲を取り持って、幕府に対抗していった契機となった約束です。当時、薩摩と長州は敵対していましたから、本来ならばありえない出来事でした。その同盟がなぜ、当時「小松帯刀の寓居」であった「近衛家別邸・御花畑屋敷」で結ばれたのでしょうか。小松帯刀を軸にして探ってみることにしました。

              薩摩藩の若き家老として活躍
 小松帯刀(たてわき)は、天保6(1835)年10月、薩摩の喜入領主(5500石)である肝付(きもつき)家の三男として生まれました。肝付家は島津家家臣団でもかなり格の高い家柄。薩摩の武士では上士です。明治維新で活躍した西郷隆盛や大久保利通は下士でした。
 帯刀は27歳の時、吉利領主(2600石)であった小松家の養子となります。小松家は、島津家の家老をすでに二人輩出している名家でした。
 帯刀は養子になる前、島津斉彬が藩主の時、21歳で奥小姓、近習番に任ぜられてから、潘の様々な立場で働きます。斉彬が急逝し、後を引き継いだ形となった弟・久光が自らの体制を作り上げる過程で帯刀は抜擢されて28歳で家老の役職に就き、軍事、政治はもちろん、特に財政、教育、商工業などの分野で活躍しました。
 彼は藩きってのエリートでしたが、偉ぶったところがなく、寛容で雄弁、身分の分け隔てなく真摯に接し、他人の面倒をよくみるなどして人望がありました。
 久光と折り合いが悪かった西郷との仲を何度も取り持った帯刀。こんなエピソードがあります。西郷が初めて帯刀に会う時のことです。年上の西郷は帯刀の態度を試そうと、はるか上役になる帯刀を部屋で横になったまま出迎えました。(西郷には人を試してみる癖がありました)それを知らない帯刀は部屋に横たわる西郷の様子を見て驚きますが、立腹することもなく、「西郷が横になって寝ておる。疲れておるのであろう。枕を持ってきてやれ」と家来に伝えました。これを聞いた西郷は、小松の度量の大きさに心服し、この先小松に対して絶対の信頼を置いたといいます。また、西郷や大久保などが自由に動き回れるよう、久光と彼らのパイプ役を果たしました。