藩内で能力を発揮し、力を持ってきたことは当然ですが、帯刀の凄いところは、混沌とした幕末にあって、様々な勢力を繋ぐ調整役のような役割を果たしてきたことです。それが、帯刀が近衛家別邸(御花畑屋敷)に住んでいて、そこに薩長の主要メンバー、そして坂本龍馬が集まり、「薩長同盟」が結ばれた、その事実によく表れています。
バランス感覚の優れた人物 |
島津家は以前から摂関家筆頭の近衛家と深いつながりがあり、斉彬の養女・貞姫が近衛忠房に輿入れした際に取り仕切った担当者が帯刀でした。この功績が認められ、のち近衛家は別邸であった御花畑屋敷を薩摩藩に貸して帯刀を住まわせ、近衛家の家紋(牡丹紋)を使うことまで認めています。帯刀が京を離れ薩摩に帰ると、「早く京へ寄こしてくれ」と藩主に手紙を書いたといわれますから、相当頼りにしていたようです。
また薩長同盟(1866年締結)の一年後の話になりますが、大政奉還(1867年)でも帯刀は大きな役割を果たします。諸藩と折衝を重ね大政奉還実現に奔走します。そして二条城で徳川慶喜が大政奉還の意思を示したとき、帯刀は最後まで居残り、慶喜に「速やかに」朝廷に上奏するよう迫り、次いで摂政・二条斉敬にこれまた大政奉還の上奏を「受理するよう」迫って、大政奉還の実現を成し遂げたのです。もちろん、西郷や大久保とも連携して動きました。西郷は帯刀の7歳年上、大久保は3歳年上と、一番年齢は若いのですが、久光のパイプ役として、そして藩の実務を取り仕切る筆頭家老として主要な場面にはほぼ同席しています。縁の下の力持ち的存在で、西郷や大久保よりも地味な印象ですが、腕利きのネゴシエイターです。こういう人がいないと組織は動きません。
帯刀と坂本龍馬の出会いが生んだ薩長同盟
坂本龍馬を語るうえで外せないのが小松帯刀。実は二人は同い年。出会いは池田屋事件があった元治元(1864)年、30歳の時です。勝海舟の建言で設置された神戸海軍操練所が廃止され、その塾頭だった龍馬はじめ30余名の塾生が行き場を失ったのです。塾生たちの面倒を見てほしいと勝から頼まれたのをきっかけに坂本と昵懇となります。
塾生たちを大阪の薩摩藩邸に引き取りました。薩摩藩としては船を自由に操れる人材が欲しいということもあったのでしょう。帯刀は薩摩屋敷に彼らを住まわせたあと、長崎の亀山を拠点にして、薩摩の交易船で働くように手配しました。これが亀山社中へとつながっていきます。