龍馬率いる亀山社中は、長崎グラバー商会から薩摩藩名義で大量の武器や蒸気船を購入し、長州に引き渡すという仲介を行います。表立っての武器購入が禁じられていましたので、長州藩にとってとても有難たかったことでしよう。このような亀山社中の働きがあり、薩長両藩の関係は修復に向かっていきました。龍馬の薩長同盟構想は、帯刀と出会ったことで実現していったといえます。
この一連のプロセスを見ると、薩長同盟の話し合いがもたれたのが小松帯刀邸であったことは自然の流れと思われます。しかも、帯刀邸=近衛家別邸ですから、幕府側も簡単には近づけません。これも帯刀が築いたネットワークがあったればこそ、といえます。
薩長同盟が結ばれたあと、龍馬が伏見の寺田屋で襲われる寺田屋事件が起こりました。龍馬は伏見の薩摩藩邸にかくまわれたあと、帯刀から、寺田屋で女中をしていた妻おりょうと一緒に鹿児島の温泉で療養してはどうかと「新婚旅行」をもちかけられ、実際に帯刀が手配した薩摩藩の船で鹿児島まで行きました。
二人は帯刀の別荘でしばらく過ごし、温泉に入ったり、高千穂でふざけて天逆鉾(あまのさかほこ)を抜いたり・・・、束の間の幸せを満喫。この時間をプロデュースしたのも帯刀だったのです。
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明治維新後、帯刀はこれまでの交渉能力を評価されて、新政府の参与と総裁局顧問を兼務します。また外交能力が高かったため、さらに外国事務掛、外国官副知官事も兼ねて大阪に出仕するなど新政府のキーマンとなります。
しかしこの頃から、糖尿病か痛風による足の激痛に悩まされます。このためやむなく官職を辞し、ボードウィンの治療を受けることに専念しました。しかし、病状は悪化の一途をたどり、すでに手遅れでした。明治3(1870)年7月、大阪で亡くなりました。34歳でした。
坂本龍馬が考えていた新政府の構想では、西郷、大久保、木戸よりも上位の席次が用意されており、イギリスの外交官、後に駐日イギリス公使となったアーネスト・サトー(Ernest
Mason Satow;1843~1929年)は、「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」「家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度にすぐれ、それに友情に厚く、そんな点で傑出していた」と語ったと伝えられています。
明治維新・影のプロデューサー。もっと長生きしていたら将来は総理大臣になれたかもしれない小松帯刀・・・・。周囲の誰もが惜しんだ早すぎる死でした。