< IT画文集 > 左近 茂樹 4/5

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         小松帯刀の寓居は、平成28(2016)年に判明  
 薩長同盟のための会談は、二本松薩摩藩邸で始まり、以後、ここから北へ約800mのところにあった小松帯刀邸に場所を移して続けられ、慶応2(1866)年1月21日、ようやく締結されました。
  ところで「薩長同盟」という言葉は、日本歴史の中では、ゆるぎないものですが、会談に立ち会った龍馬は、同盟、盟約とも約定とも言っておらず、「談論」と言ったとされます。さらにこの会談の議事録とか同盟の証しとなる文書があったのかなかったのかも不明です。木戸がメモした6か条が残されていますが、それには出席者の署名がない。このような状況なので、数次にわたる会談日時、場所などについては分からないままでした。
  分かっていたことは、帯刀が近衛家別邸御花畑屋敷に住んでいたこと。木戸の日記から「同盟は帯刀の寓居にて」だけで、御花畑屋敷がどこかがずっと特定できませんでした。
  ところが、2016年に鹿児島、京都で相次いで「御花畑絵図」が見つかったのです。京都の発見者は、元小学校教員で現在は西郷隆盛を研究する歴史家、京都在住の原田良子さん。
  5万点ある京都府行政文書を丹念に調べ、近衛家別邸御花畑屋敷が、
「京都市上京区室町通鞍馬口下」にあったことを突き止められたのです。

  御花畑屋敷は、鞍馬口通り約90m、室町通約60m、中町通約140m(当時、烏丸通は上立売通止まりだったので、図のように屋敷が現在の烏丸通を貫いていました)、約1800坪という広大な邸宅であったことが分かりました。ここに小松帯刀が住んでいたのです。
  木戸孝允の伝記の中に、同盟について「帯刀の寓居に会合し」と記されており、この地ということで決着をみたのです。同盟締結後150年を経て、原田良子さんに発見してもらい、さぞかし帯刀も草葉の陰で喜んだことでしょう。
  2017年3月に「薩長同盟所縁之地」「近衛家別邸 御花畑屋敷跡」「小松帯刀寓居跡」が刻まれた碑が建てられました。(1ページの写真)
  新資料が見つかるまでは、「京都市上京区堀川東入南側松之下町」を「小松帯刀寓居参考地」としていました。当地には近衛家の堀川邸があり、内部に「御花畑」がありました。帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居にしたとされるため、ここが御花畑屋敷ではないかとされたのです。2008年にこの地に碑が建てられましたが、上記の新発見により撤去されました。