祇園八坂神社の本殿を東へぬけて円山公園から京都市音楽堂を南へたどると、通称「ねねの道」と呼ばれ料亭やみやげもの店、カフェなどがたち並ぶ道に出てくる。やがて左手に幕末 新選組を離脱した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)らの根拠地であった御陵衛士屯所跡の石碑と門が目にはいる。そこを通り過ぎて、左手のゆるやかな石段を登ると小さな門があり、その門をくぐると狭い台地になった高台寺の前庭にいたる。北側を向くと正面に堂々とした庫裡が建っている。
この寺は、関白 豊臣秀吉の没後 その菩提をとむらうため、正室の北政所(ねね 1548~1624)によって、慶長11(1606)年に建てられた。寛永元(1624)年 臨済宗総本山 建仁寺の高僧 三江紹益(さんごうじょうえき)を開山として招き、高台寺と称した。寺の建立に際しては、徳川家康が政治的な配慮による多大な財政援助をおこなったので、建物は壮麗をきわめたと伝わっている。しかし、寛政年間(1789~1801)以降 たびたびの火災にあって多くの建物を失い、現在残っているのは開山堂、御霊屋(おたまや)、傘亭・時雨亭(いずれも茶室)、表門、観月台のみであるが、これらは伏見城の遺構でもあり 国の重要文化財に指定されている。
慶長3(1598)年に秀吉が伏見城で没すると、ねねは大坂城 西の丸をはなれて京都三本木(京都地裁付近)にいったん仮り住いしたあと、寺の完成を待ってこの地にうつり余生をおくる。
寺から夫の秀吉がまつられている阿弥陀ケ峰 豊国社(東山七条から京都女子学園の女坂を登りつめたところ)へは、約1.5kmの近きにあるため足しげく社参した、と古文書に残る。ねねは、寛永元(1624)年に没すると この寺に葬られ、御霊屋(おたまや 上の写真中央)に秀吉とともにまつられた。