円徳院は、高台寺の西に位置する塔頭である。寛永9(1632)年 北政所(ねね)の甥 木下利房 (きのしたとしふさ)が、屋敷を寺院に改めた。北庭は、枯山水の「旧円徳院庭園」として国の名勝に指定されている。方丈の東北にあるこの庭は、伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移築したもので、安土桃山時代の原型をとどめる庭園のひとつとされる。晩年この寺に起居したねねは、木下氏略系図(右下)が示すように杉原定利と妻 朝日の間に生れた女性である。杉原姓を木下姓に改めた実兄 家定の次男が利房になる。関ケ原合戦では徳川方の東軍に加わったが、家定の長男 勝俊は戦いを忌避して長嘴子(ちょうしょうし)と称し、歌詠みの道に専念する。円徳院の歌仙堂には長嘴子がまつられている。合戦後の家康による領地再配分で、次男の利房は備中足守(2万5千石)藩主、三男延俊(のぶとし)は、豊後日出(ひじ 2万5千石)の藩主となる。五男の秀秋は、秀吉により毛利三家のひとつ、小早川隆景の養子となり小早川秀秋を名のる。関ケ原では、西軍に属しながら家康の調略により松尾山から味方の大谷吉継隊を急襲。これが動機で西軍が崩れ、東軍が勝利する。世に「日和見の武将」といわれるゆえんである。また、利房の足守藩は、忠臣蔵で知られる赤穂城引き渡しの立ち合い藩をつとめたことや大坂適塾を開いた緒方洪庵を輩出したことで知られる。延俊は、別府湾 日出の海岸に暘谷(ようこく)城を築く。いまは城跡の石垣だけが往時をしのばせている。