東山七条から西へ、蓮華王院(三十三間堂)を南へ折れるとやがて左に養源院の門が見える。養源院は、文禄3(1594)年 淀殿(茶々)が近江 小谷城で死去した父 浅井長政の追善のため秀吉に懇願して建立した、とされる。のちに火災で焼失したため元和7(1621)年 淀殿の妹
徳川秀忠夫人の崇源院(ごう 江)が、伏見城の遺構を移して再建、以来徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌をまつる。本堂内廊下の天井は、関ケ原の前哨戦で、家康から伏見城の留守居役を命じられた鳥居元忠以下が西軍の攻撃で自刃した際の血染めの床板を天井板に用いたものとされ、俗に「血天井」として知られている。また、堂内の杉戸やふすまの絵(いずれも重要文化財)は、琳派の祖とされる俵屋宗達によるもので杉戸には唐獅子や白象などの珍しい動物が描かれている。シーズンには、修学旅行生の人気スポットとしてにぎわう。
浅井(あざい)家 三姉妹について
織田信長の妹 市(いち)は、天下布武をかかげて近畿への進出を狙う信長の戦略的な婚姻政策により北近江の武将、浅井長政と結婚する。 小谷城(おだにじょう
滋賀県長浜市)で生まれたのが 茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう) の三姉妹である。信長は、越前朝倉攻めの途上、全幅の信頼をおいていた長政の裏切りで窮地におちいり京都に逃げ帰ったことから天正元(1573)年8月小谷城をあらためて攻略する。難攻不落の堅城であったが木下秀吉らの活躍で攻めおとされる。市と子供たちは城をのがれるが、長政は自刃した。市は信長の命により柴田勝家と再婚するが、天正11(1583)年賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れた勝家は、北ノ庄城(福井県
福井市)で敗死し市も運命を共にする。その後の三姉妹は、数奇な運命をたどることとなる。
長女の茶々(淀殿)は、秀吉の側室となり秀頼を生む。秀吉の死後、秀頼の後ろ盾となって豊臣家を差配するが、やがて徳川家康と対立する。慶長20(1615)年大坂夏の陣で徳川方に敗れ、秀頼とともに大坂城内の山里丸で自害。次女の初は、京極高次に嫁ぐ。高次は、関ヶ原の戦いの功績により若狭
小浜藩主となる。高次の死後、初は出家して常高院と名乗る。慶長19(1614)年の冬の陣では、はげしく戦う豊臣・徳川両陣営の和睦交渉にほん走した。三女の江は、秀吉の政略による2度の婚姻ののち、家康の次男で2代将軍となる徳川秀忠の正室となり3代将軍の家光、後水尾天皇の中宮となる和子(まさこ
明正天皇の母)や豊臣秀頼の正室となる千姫らの生母となった。 (完)
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