肥前(佐賀県)の生まれ(1675~1763)で、江戸時代中期の黄檗宗僧侶。世に売茶翁と呼ばれ、還俗(げんぞく)後は 高遊外と称した。煎茶道の始祖とされ後世に大きな足跡を残したが、みずからは終生簡素で清貧な生活を送った。26歳の時、長崎で清国人から煎茶について知識と手ほどきをうけ、煎茶道を開いた。しかし、時を経るとともに茶道が高級化することを嘆き「茶銭は、黄金百鎰(ひゃくいつ 鎰は金二十両)より半文銭、また呉れずしてただ飲むも勝手、ただよりは負け申さず。」と、道ばたに腰かけて民衆に茶をすすめ、質素であるべき茶にたち帰ろうとつとめた。61歳の時、庶民や文化人と交流することを目的に京都東山に小さな茶店「通仙亭」(注1)をひらく。70歳の時、禅門から還俗し「高遊外」を名のる。交友としては、池大雅(いけのたいが)、与謝野蕪村、伊藤若冲、大典顕常(だいてんけんじょう相国寺高僧)など著名な文化人が多い。永谷宗園(ながたにそうえん)(注2)とも親交を深め、足を運んで宇治田原に庵をたずねている。81歳で売茶業を廃し、あとは揮毫(きごう 書道をなりわいにすること)で生計をたて、87歳の時三十三間堂南の幻々庵にて死去。かかわり深い萬福寺には遺徳をしのび売茶堂が建つ。
(注1) 通仙亭:真葛ケ原(まくずがはら円山公園辺り)から三年坂あたり、あるいは東福寺の西、本町通りから鴨川付近とする説もある。
(注2) 永谷宗園:江戸時代中期に山城国宇治田原郷の湯屋谷で製茶業を営んでいた永谷宗七郎がのちに宗園を名のる。茶葉を手もみ乾燥させる焙煎茶の製法を開発して、宇治煎茶の名を世間にひろめた。(株)永谷園は、お茶漬のりなどの食品を製造販売する企業として知られる。