<IT画文集私の醍醐味> 宮本喜久夫 2/4

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1ー2.国民学校入学と父の出征 
  昭和19年、京都醍醐国民学校に入学した。校門の後ろに奉安殿(天皇・皇后の御写真と教育勅語)に礼拝し、忠魂碑の前で入学の記念写真を撮った。(校名は京都醍醐国民学校)5月に入って、再び父に第62師団通信隊から追加招集令状が来た。その時の落胆した母や祖母の顔は今も忘れられない。年が明けて敗色が濃くなり、学校では英霊をお迎えする。戦闘帽にゲートル姿の高等科の生徒4人がトランペットを吹き、軍人が「右へ倣え・・・」で私達は黙とうした。既に校庭は芋畑になり、「撃ち手し止まん、勝までは・・・」と銃後の少国民は、防空壕を掘りに、農家の勤労奉仕に子供なりに励んだ。 

旧京都醍醐国民学校 (校長先生 中央) 
 
京都市内の空襲記録

1ー3.頻発する空襲警報 
  昭和20年、既に京都も空襲警報のサイレンが昼夜を問わず、日に何度も鳴り、学校の授業は殆んど不可能の状態になっていた。給食の黒パン1個を貰って帰るある日の午後、西の稲荷山から物凄い爆音とともに学校に敵の戦闘機が低空飛来して、「バリバリバリダダダダ・・・」と機銃掃射を掛けて飛び去った。大勢の生徒達が我先にと教室の床下の防空壕へ逃げ隠れた。私はもう一つの運動場いたので周囲の林の中に隠れた。歯がガタガタ震えて止まらなかった。
 
1月16日東山馬町爆撃
 
7月19日日本輸送機煙突被弾
 いよいよ身近に空襲が来た、昭和20年1月、私の家の裏山の花山天文台の方で、深夜、爆音と共に赤い炎が上った、それが馬町空襲であった。東京・大阪のような大都会への爆撃のニュースは周りから聞いていたが、3月の大阪大空襲は三日三晩、昼の空は黄色の煙で覆われ、夜は真っ赤に染まった空は地獄色に見えた。また、7月母の親元の神足で、食糧難で調達に行った時に、家の近くの日本輸送機・日本研磨の工場に機銃掃射があった、真昼の出来事で親戚の防空壕に隠れたことがある。