<IT画文集私の醍醐味> 宮本喜久夫 3/4

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 2.玉音放送
 昭和20年8月15日、私が国民学校2年、夏休みの蒸し暑い昼前だった。家裏の伏流水の出ている梅ヶ原でウナギの仕掛けをして遊びに夢中になっていた時、町内の有力者が重大放送あるらしいと言ったので、大人たちは勿論、子供達も騒然となった。急いで家に帰り、いつも警戒警報を聞いている燃料屋さんのラジオを聞くと、天皇陛下が何か難しい言葉で、しかも聞き取りにくい音声で終戦を告げられていた。それを聞いた私は「夜間の空襲警報もない、B-29の飛行雲に怯えることもない日が来る」と少年心に、戦争が終わって良かった・・・と思わず叫んだ。  

 2―1.占領下の沖縄訪問  
 高校時代の友、2人に16師団に何故父が入営しなかったのか確かめられた。それは日中事変で北支管轄の62師団に入隊したので、16師団ではなく補充で沖縄に行ったのである。友の父は16師団でフイリッピンのレイテ戦玉砕した)父から我が家には沖縄から泊港に魚雷をくぐって部隊に着いた一報があったのみで、既に米軍との戦闘は始まっていた。翌20年4月19日、ついに米軍は650機の第1回の総攻撃をかけ、5月30日には第32軍の本拠地、首里城を占領した。抗戦した京都の62師団も宜野湾地域から撤退し、更に日本軍全体が多量の武器弾薬を放棄し、沖縄島南部に集結して徹底抗戦した。ついに補給を絶たれて力尽きた。

 
守備兵だった摩文仁の地下壕入口
 
撤退した首里城下の第32軍地下壕跡
 6月22日夜半、軍司令官・牛島中将は各師団長に最後の決別をなし、参謀長と共に摩文仁の壕の海岸に面する坑道の入口において切腹自決し果てたのであった。父は宜野湾から摩文仁の壕まで撤退し、幹部の自決後、統制がなくなった将兵は逃亡したが、父は任務上、玉砕したと帰還兵から戦後知らせがあった。 
 
昭和38年・47年 慰霊の日に平和行進参加
 
平成5年平和の礎参拝
 平和行進は那覇―摩文仁迄往復、返還前の壕は遺骨そのままで、手を合わせ悲しみに暮れた・・・。