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毘沙門堂・神応寺境内 |
神応寺境内に安置する毘沙門天は古牛松ヶ谷の大岩へ天降り給い、村民これを百足山に請じ産土
神として鎮祭しこれより後当地を毘沙門村と称するようになったと伝えられている。
天正三年 明智光秀、亀岡に入国するや急遽築城しようとして近隣の神社仏閣の建造物、敷石等かり集め、
その際毘沙門堂も亡失したと古文に記される。
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その後、堂は復元され明治初年まで同地に鎮座していたのであるが、
明治六年、神応寺境内の八幡宮を百足山に遷座し、昆沙門天を仏法擁護の神として神応寺内に転祭し、現在に至る。
毘沙門天像は木造極彩色、左手に鉾をもち右足にて鬼神羅刹を踏まえ、
向かって左に吉祥天、右に善膩師童子を脇侍として
従え財施の神として古米より信仰されている。毎年正月の初寅の日には開扉して、いにしえ祭典が行われる 。
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元愛宕神社の眼下のお寺!
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養仙寺は、約五00体余りの布袋像をお祀りしていることか
ら、別名ほてい寺と呼ばれ親しまれている、丹波七福神第二番の札所です。
当寺の創建は、寛正年間(一四六〇~ー四六六)に泰岩和尚により開かれたと伝えます。
その後、度重なる兵火等により焼失し、さらに明智光秀の亀山城築城に際して石塔等も持ち去られたと伝えます。
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堂内に安置されている木造地蔵菩薩立像は、式内社愛宕神社の本地仏とも言われ、
平安時代末の穏和な相好の遺風を残しながらも、鎌倉時代の理知的なきざしも現れています。
寺伝では、将軍地蔵と呼ばれ足利尊氏の念持仏とも言われています。
当寺の別称の所以ともなっている布袋尊は、七福神の中で唯一実在した人物で、
契此と呼ばれ弥勒菩薩の化身として崇められ和顔愛語、度量と寛容の大切さを説き、身を以って大衆と共に教えを行じた中の禅僧です。
法縁により当寺に集蔵の布袋群像と会するときは、その福徳円満とほほえみを享受することが出来ます 。
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