<IT画文集~私の醍醐味~>  齋藤 鞆音 3/4  

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元愛宕神社
七 谷 川

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「 元愛宕神社 」  ( 亀岡市千歳町国分 )

 この社は京都市・愛宕山頂の愛宕神社が、この場所から遷座していったと伝え、 元愛宕とも呼ばれる。しかし背後の山は牛松山と呼ばれ、ここから愛宕山を望むことはできない。
『日本三代実録 』等によると、愛宕護神(あたこのかみ)と鎖座地である「愛宕護山」は、古代において丹波国に属していたことが記録されている。
 この事実から、愛宕山は現在のように京都市(山城)側を表とするのではなく、 本釆は亀岡市(丹波)側からみた風景が本来の姿であったと考えられよう。 ならば山麓に元愛宕が鎮座する牛松山までが、古代の愛宕山に含まれた可能性がある。
いくつもの山袈が重なった「愛宕山麓」とでも言うべき雄大な姿が、丹波の神のすまう霊山であったかもしれない。

 

愛宕神社(阿多古神社)について

  眼下に保津川を見据え整美な山、牛松山を神奈備として千歳町国分に平安時代の「延喜式」神名帳にも記載された古社です。

お札さん
火防せの神として、家々の台所など火を使う場所には、「阿多古祀符火迺要慎」のお札が貼られ、まち角の麦宕灯籠に灯明をあげる「火とぼし」の姿も各所で連綿と受け継がれ、 その崇敬の様は、伊勢へ七度、熊野ヘ三度、愛宕は「月参り」言われるほどです。
 今も、四月二四日の鎮火祭には、「愛宕講」を始め多くの方が参詣に訪れます。
    <追記> 私の町内でも、毎年・四月末に「愛宕参り」が恒例の行事です!
  平安遷都によって山城側の人口が増加したことにより次第に信仰の中心が移動し、古代における丹波の神としての性格は、 忘れ去られていったようである。
 古代の愛宕山が神体山であったとすれば、元愛宕は本来拝殿、あるいは里宮のような役割を果たした存在たあったと考られる。
 丹波の神であった愛宕護神の原初的な形態を、現在に伝える貴重な史跡と言えよう。 なお本殿は鎌倉時代の建立と考えられ、重要文化財に指定されている。   <京都愛宕研究会>
                 
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